音は聞こえるのに何を言っているかわからない
はじめに
「音は聞こえるのに何を言っているかわからない」という現象をご存知でしょうか。周囲の音や話し声は確かに耳に入っているのに、内容が聞き取れないという症状です。たとえば静かな場所では会話に問題がなくても、少し周囲が騒がしくなると相手の言葉が途端に聞き取れなくなることがあります。これは決して珍しいことではなく、年齢や環境にかかわらず誰にでも起こり得る現象です。にもかかわらず、「ちゃんと聞こえているはずなのに集中力が足りないのでは?」などと誤解されることも多く、本人にとって大きなストレスとなりがちです。この記事では、この「聞こえているのに聞き取れない」症状の背景にある主な原因と、その仕組みや対処法について解説します。日常生活でコミュニケーションの困難さを感じている方に、原因を正しく理解し適切な対応を取ることの重要性をお伝えします。
聴覚の仕組み
人間が音を聞き取る仕組みは、外耳・中耳・内耳・聴神経・脳(聴覚中枢)が連携して成り立っています。まず外側の耳(耳介)が音を集め、音の空気振動は外耳道を通って鼓膜を振動させます。鼓膜の振動は中耳にある3つの耳小骨によって増幅され、内耳の蝸牛(かぎゅう)に伝えられます。蝸牛には音を感じ取る有毛細胞(聴覚細胞)が並んでおり、振動エネルギーを電気信号に変換します。その電気信号が聴神経を通じて脳に送られ、脳が信号を分析して「何の音か」「どういう言葉か」を判断しています。
このように正常な聴覚では、音の物理的振動が電気信号に変換され、聴神経を介して脳に伝達されることで初めて「聞こえた音の意味」を理解できます。したがって、どこかの過程に問題が起これば「音は感じるが言葉の内容がわからない」といった状態になる可能性があります。外耳や中耳に問題がある場合は音そのものが聞こえにくくなりますが、内耳から脳にかけての経路に障害がある場合、音自体は聞こえるのに言葉の理解が難しくなることがあります。次の章では、特にこの現象の原因として代表的な3つの疾患・障害(Auditory Neuropathy(聴神経障害)、Cochlear Neuropathy(隠れ難聴)、APD(聴覚情報処理障害))について詳しく見ていきましょう。
主な原因となる疾患
Auditory Neuropathy(聴神経障害)
Auditory Neuropathy(オーディトリーニューロパシー、聴神経障害)とは、内耳で音を感じ取る仕組みは正常に働いているにもかかわらず、その音の信号を脳に伝える過程に問題が生じている状態を指します。簡単に言えば、耳の奥(内耳)では音をキャッチしているのに、その信号がうまく脳に届かないために言葉がクリアに理解できなくなる障害です。これは新生児から高齢者まであらゆる年代で起こり得ます。聴神経障害の原因としては、内耳の有毛細胞(音を感知する細胞)の機能不良や損傷、有毛細胞と聴神経をつなぐシナプスの異常、聴神経そのものの障害などが考えられます。遺伝的要因や低酸素状態、新生児期の黄疸、高熱によるダメージなど様々な要因でこの障害が生じることが報告されています。
Auditory Neuropathyの大きな特徴は、純音聴力検査(ピーという音の聞こえのテスト)での結果と、言葉の聞き取り能力とのギャップにあります。聴力検査上は正常ないし軽度〜中等度難聴程度に留まる場合でも、実際の会話の理解度が非常に低くなることがあるのです。つまり、小さな音は聞こえているのに話し言葉の内容がわからない、といった状態になります。人によっては音が途切れ途切れに聞こえたり、タイミングがずれて聞こえたりすることもあり、特に周囲の雑音下では言葉の聞き取りが一層難しくなります。この障害は専門的には「聴神経障害スペクトラム(ANSD)」とも呼ばれ、診断には耳音響放射(OAE)検査や聴性脳幹反応(ABR)検査が用いられます。OAEで内耳の有毛細胞の反応が正常なのに、ABRで聴神経の反応が得られない場合、Auditory Neuropathyと判断されます。
Cochlear Neuropathy(隠れ難聴)
隠れ難聴(かくれなんちょう、Cochlear Neuropathyとも呼ばれます)は、最近注目されるようになった新しいタイプの難聴です。従来の聴力検査では「問題なし」と判定されるのにもかかわらず、実際には聞き取りにくさを訴えるケースで使われる言葉です。特に騒がしい場所で相手の話が聞き取れない、声が重なると聞き分けられない、あるいは早口の会話についていけないなどの症状が典型的です 。
文字通り「隠れた難聴」であり、標準的な検査では見落とされてしまうごく初期の聴覚障害と考えられています 。このため「将来的な本格的難聴の第一段階」とも位置づけられます。例えばコンサートなど大音量の環境に長時間いた後、一時的に会話が聞き取りづらくなる経験をする人もいますが、隠れ難聴ではそのような大きな音による内耳へのダメージが蓄積し、静かな環境での聴力は一見正常に戻ったように見えても実は神経の一部が損傷している状態だと考えられます。
隠れ難聴の原因の一つとして有力なのが、蝸牛シナプス障害(コクレア・シナプソパチー)と呼ばれる内耳の神経接合部の異常です。内耳の有毛細胞と聴神経をつなぐシナプスが大音量曝露や加齢などによって損傷し、本来であれば脳に送られるべき信号の一部が途切れてしまうのです。その結果、静かな環境では日常会話程度の音声信号は残った経路で問題なく伝わるため「聞こえている」ように感じます。しかし複数の人の声や雑音下の会話のように脳に送るべき情報量が増える状況になると、損傷した経路では処理しきれず言葉が不明瞭に聞こえるというわけです。
実際、隠れ難聴の方は「一対一の静かな対話は平気だが、居酒屋や会議など周囲がうるさいと途端に聞き取れない」と訴えることが多くあります。診断のためには、通常の純音聴力検査に加えてスピーチテスト(語音明瞭度検査)や騒音下での聞き取りテストが有用です。これにより静かな時は理解できても雑音下ではスコアが極端に低下するといった特徴が確認できます。また、必要に応じて先述のABR検査で内耳神経の反応を詳しく調べることもあります。
APD(聴覚情報処理障害)
APD(Auditory Processing Disorder、聴覚情報処理障害)は、耳そのものの聴力には問題がないにもかかわらず、脳が音の情報を処理する過程に障害があるために言葉の聞き取りが難しくなる状態です。いわば耳では聞こえているのに、脳でうまく「聞き分けられない」障害です。
具体的には、周囲に雑音があると会話についていけなくなる、複数人の会話を同時に処理できない、相手の声だけを選択的に集中して聞くのが困難などの症状が現れます。また、相手の表情や口の動きが見えない電話越しの会話や、早口・複雑な指示の理解にも支障をきたすことがあります。
APDは子どもにも大人にも起こり得ますが、発達段階での聴覚情報処理の偏りや脳のわずかな損傷などが関与すると考えられています。例えば発達障害(自閉症スペクトラムやADHDなど)を持つお子さんにAPDが併存するケースや、脳損傷・脳卒中の後遺症として大人がAPD様の症状を示すケースも報告されています。そのほか加齢によって中央の聴覚処理能力が低下し、周囲の環境音の中で言葉を聞き取る力が落ちてくる場合もあります。
APDの診断では、まず通常の聴力検査で聴力が正常であることを確認した上で、専門的な聴覚処理テストを行います。具体的には、左右それぞれの耳に異なる数字や単語を同時に聞かせて認識する検査(ディコティック試験)、途切れた音を聞き取る検査、騒音下で文や単語を聞き取る検査など、脳の音声処理能力を評価する複数のテストが用意されています 。
日本でも近年ようやくAPDへの認知が高まり、専門機関での検査や支援が少しずつ整備されつつあります。しかし一般にはまだ馴染みが薄く、耳鼻科医でさえ見逃してしまうこともあるため、周囲の理解不足も含めて課題の多い障害と言えます。推定では日本国内に約2%(およそ240万人)のAPD当事者がいるとも言われており、決して稀なケースではありません。
症状の比較
上で挙げた3つの疾患・障害はいずれも「聞こえているのに聞き取れない」共通の症状を持ちますが、原因や特徴には違いがあります。以下にそれぞれの特徴を比較してまとめます。
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Auditory Neuropathy(聴神経障害): 内耳から脳に信号を送る聴神経の伝達不良が原因です。聴力検査では軽度難聴~中等度難聴が見られることが多いものの、場合によっては聴力が正常なケースもあります。特徴的なのは言葉の明瞭度の低さで、静かな場所でも会話の理解に苦労する場合があります。特に音声の時間的なずれや途切れを感じることがあり、補聴器で音量を上げても解決しにくいことがあります。幼少期に発見されることも多く、場合によっては成長とともにやや改善する例も報告されています。
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隠れ難聴(Cochlear Neuropathy): 内耳の神経結合部の部分的な損傷(シナプス障害)が原因と考えられます。聴力検査の数値上は正常であるため発見が難しく、本人も周囲も最初は気づきにくい傾向があります。しかしザワザワした環境で真っ先に聞き取りに困るのが特徴で、周囲が静かなら問題なく会話できるのに、騒音下では極端に聞き取り能力が低下します。若年層でも大音量の音楽やイヤホンの長時間使用でこの状態になることがあり、「疲れると聞き直しが増える」といった訴え方をされることもあります。通常の難聴と違い本人も周囲も気付きにくいため、見過ごされてコミュニケーションに支障をきたすリスクがあります。
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APD(聴覚情報処理障害): 耳の機能は正常ですが、脳の音声処理の問題により生じます。静かな環境なら支障なく聞こえる一方、複雑な音環境で言葉の理解が難しくなるのが特徴です。特に周囲の雑音・複数人の会話・電話越しの会話などで顕著に症状が現れます。幼児期から症状がある場合、周囲から「聞いていない」「注意力の問題」と誤解されがちですが、本人の意思とは無関係に脳が音の情報処理を一部うまくできない状態です。
以上のように、それぞれ障害の部位(聴神経か内耳シナプスか脳内か)、聴力検査結果の傾向、症状の現れ方に違いがあります。
簡単に言えば、Auditory Neuropathyは耳と脳をつなぐ回線の不具合、隠れ難聴は内耳の配線の一部断線、APDは脳の受信処理側の問題と言えるでしょう。
診断と検査方法
※ほとんどの耳鼻咽喉科クリニックでは、機材の問題で標準純音聴力検査と語音聴力検査しかできません。当院も同様です。
専門的な検査が必要な場合は、総合病院や大学病院での診療が必要となります。
「音は聞こえるのに聞き取れない」という症状に対しては、まず耳鼻咽喉科や聴覚専門医で聴力検査(純音聴力テスト)を行います。ここで聴力低下が見られれば、程度に応じて感音性難聴やAuditory Neuropathyなどの可能性を考えます。一方、検査で聴力が正常にもかかわらず聞き取りづらさを訴える場合は、さらに詳しい検査に進みます。
次に行われるのは語音聴力測定やスピーチテストです。ヘッドフォン越しに単語や文章を聞き取り、どの程度正確に理解できるかを調べます。特に雑音下での語音明瞭度を測定する検査では、静かな場合との聞き取り能力の差を見ることで隠れ難聴を発見する手がかりになります。また、小さな音ではなく普通の会話音声での言葉の聞き取りテスト(語音聴力検査)で異常にスコアが低ければ、聴神経の障害やAPDを疑う材料となります。
さらに必要に応じて、生理学的な検査も実施されます。代表的なのが聴性脳幹反応(ABR)検査です。これは音に対する脳幹の反応を脳波として記録する検査で、聴神経や脳幹部での信号伝達を評価できます。Auditory Neuropathyでは特徴的にABRで正常な波形が得られない反面、耳音響放射(OAE)という内耳有毛細胞の検査では正常反応が得られることがあります。この組み合わせはAuditory Neuropathyの診断に有力です。
APDが疑われる場合は、専門的な中央聴覚処理検査を行う施設へ紹介されることもあります。例えば、両耳に異なる語を同時に流してどこまで聞き取れるかを見るディコティックリスニング検査、途切れた音声から内容を推測するギャップ検出検査、早口の文章理解テストなど、多角的に脳の処理能力を調べます。ただしこれらの検査は専門機関でないと難しいため、現在は問診や一般的な検査結果から総合的に判断し、必要に応じ専門家に繋ぐという形が多いでしょう。
治療と対策
「音は聞こえるのに聞き取れない」症状への対処法は、原因に応じて異なります。医療的な治療が確立している場合もあれば、生活上の工夫や補助具の活用によって症状を和らげることが中心となる場合もあります。ここでは主な対策を紹介します。
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補聴器の活用: まず、難聴(聴力低下)を伴うケースでは補聴器が有効なことが多いです。Auditory Neuropathyのように聴力自体も低下している場合、補聴器で音を増幅することで脳への音の入力を補い、言語処理能力の低下を防ぐ助けになります。長期間聞こえの悪い状態が続くと脳が言葉を忘れてしまう傾向があるため、補聴器で刺激を与えることにはリハビリ的な意味合いもあります。一方、隠れ難聴やAPDで純音聴力が正常な場合、補聴器の効果は限定的です 。
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FMシステム・補助機器の利用: 補聴器以外にも、音声を聞き取りやすくするための補助機器があります。代表的なのがFMシステム(ロジャーシステム等とも呼ばれる無線補聴支援システム)です。これは話し手が身につけたマイクの音声を、離れた聞き手のレシーバー(補聴器や専用受信機)に直接届ける仕組みで、周囲の雑音や距離による音の減衰を大幅に減らしてくれます。教室で先生の声が聞き取りにくい子どものAPDや、会議・講演で特定の人の声をクリアに聞きたいケースなどで活躍します 。また、テレビや電話の音声を手元のヘッドホンに飛ばすワイヤレス送信機、周囲の騒音をカットして人の声だけを強調する集音デバイスなども市販されています。これらを必要に応じて使うことで、「聞こえにくい」場面を技術の力で補うことが可能です。
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環境の調整とコミュニケーションの工夫: 日常生活では環境調整も重要な対策です。例えば会話をするときはできるだけ静かな場所を選ぶ、バックグラウンドでテレビや音楽が流れている場合は一旦消す、レストランでは壁際や静かな席に座る、といった工夫で雑音を減らせます。また相手に協力をお願いし、ゆっくりはっきり話してもらう、顔の見える位置で話す(読唇や表情からの手掛かりを得るため)ようにすると理解度が上がります。聞き返すことをためらわないのも大切です。「ごめんなさい、もう一度言ってもらえますか?」とお願いすれば、周囲も静かにしてくれたり言い換えてくれたりするかもしれません。学校や職場では、周囲への啓蒙も有効です。APDなどはまだ認知度が低いため、本人や家族が状況を説明し、席の配置を配慮してもらったり資料を文章でも用意してもらったりといったサポートを取り付けることで、コミュニケーションのハードルを下げることができます。
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専門的なリハビリ・トレーニング: APDの場合、聴覚情報処理を改善するためのトレーニングが行われることがあります。例えば音の方向を当てる訓練や、雑音中の音声を聞き取る訓練、聞こえた内容を一度頭の中で保持してから繰り返すワーキングメモリ訓練などです。
ただし現時点で確立されたエビデンス(科学的根拠)のある治療法はまだ確立されておらず 、効果には個人差があります。とはいえ継続することで「聞き取りにくさが軽減した」との報告例もあり、専門家の指導のもと取り組む価値はあるでしょう。
またAuditory Neuropathyに対しては、重度の場合人工内耳の埋め込み手術が検討されるケースもあります。人工内耳は内耳に電極を挿入し直接聴神経を刺激する装置で、特に小児の先天性ANSDなどで言語獲得に支障が出ると判断された場合に適用されます。
一方、隠れ難聴に対する特効薬はまだありませんが、内耳の血流改善薬やビタミン剤が試みられることもあります。
まとめ
「音は聞こえるのに何を言っているかわからない」という症状には、実に様々な原因が潜んでいます。耳そのものの障害(難聴)から聴神経のトラブル、内耳のごく細かな障害、そして脳の情報処理の問題まで、多岐にわたる可能性があるのです。本記事で取り上げたAuditory Neuropathy(聴神経障害)、隠れ難聴、APD(聴覚情報処理障害)はいずれもその代表例と言えます。それぞれメカニズムや特徴は異なりますが、共通するのは放置すればコミュニケーションに支障をきたしうる重大な問題であることです。
大事なのは、本人が「聞き取りにくさ」を自覚したら我慢せず専門機関で相談すること、そして周囲も「聞こえているのに返事がおかしい」と感じたら頭ごなしに責めず専門家の助けを促すことです。耳鼻科で検査を受けて異常なしと言われても症状が続く場合、APDなど専門的な評価が必要なケースもあります 。適切な診断を受ければ、自分に合った補聴器や補助機器の選択、環境調整の工夫、リハビリテーションなど打てる手立てが見えてきます 。聞き取りにくさを改善・軽減することで、日常生活のストレスは大きく軽減し、人とのコミュニケーションも取り戻せるでしょう。一人で悩まず、専門家の知恵とテクノロジーも借りながら、快適な「聞こえ」と生活を目指していきましょう。